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Home トップページ  >  今月の法語  >  畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ『正法眼蔵随聞記』

2007年11月
畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ

『正法眼蔵随聞記』

「どうしようもない」と思う事がある。そこには、どうする事も出来ない自分への苛立ちと、他者への怒り、憤りがあり、苦悩する。それはやがて、「あきらめ」という心境へ向かって行くのではないだろうか。
若き日の道元禅師が宋国にいたときのこと、禅寺で、古人の語録を読んでいたところ、四川省出身の僧で、修行を立派になさった方が、問いかけていわれた。
「なにの用ぞ」 【訳】『《語録を見て》何の役に立つか』
「郷里に帰(かへつ)て人を化せん」 『郷里に帰って、人を教化するためです』
「なにの用ぞ」 『何の役に立つか』
「利生(りしょう)の為(ため)也」 『衆生に利益を与えるためです』
「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ」 『結局(究極、最終一点)求むべきもの、それは何か』

 自分の力で出来る事であれば、どうにかしようと思う。けれども、身の振り方によっては、相手はもちろん、自分の立場、利害、評判、などに関わってくる。まず、自分が大事なのである。色々な駆け引きや、やりくりがあって、自分の力では、どうする事も出来ない為にあきらめる。端的に言えば、これまでは、「どうしようもない」けど、「どうにか出来る」やはり、「どうしようもない」もう、 「どうでもいい」という風になっていた。しかし、この言葉に出会ってからは、「どうしようもない」という思いがおこる所に、【畢竟して何の用ぞ】と出てくるのである。
 この言葉が、自分自身に問いかけてくる。「それが、何の役に立つのか。一体それが、何になるのか。畢竟、求むベきもの、それは何か」私が、どうしても求めなければならない、最終の一点とは何であろうか。「今、私の求むベきものは、これだ」ということが、例えあったとしても、それは、一時的なものである。なぜならば、今は変わらないと思っていても、縁によっては、自分というものこそ、どうなるかさえ、わからないのです。定まる事はありません。そうだとすれば、この自分自身に対して、妥協もごまかす事も出来ないもの。果たしてそんなものあるだろうか。結局、「何もない、何の役にも立ちません」これが、私である。自分の有り様に気づかされて、この身の事実として、私の姿があきらかになる。あきらめるのである。あきらめるとは、明らかになるという事である。ここが、はっきりしない為に苦しむのではないだろうか。
 この章の最後は、【其後(そのの)ち、語録等を見る事をとどめて、一向(いっかう)打坐(にたざ)して、大事を明(あきら)め得たり。】と 結んでいる。
『どうしようもないわたしが歩いている』と山頭火の句にある。「どうしようもない」のは私である。明らめ得たのである。だが、明らめても、明らめても、明らめきれず執着する心。何事も自分のはからいで、どうにでも出来るという思い。この姿が明らかになるばかりである。
 はじめて仏(ぶつ)のちかいをききはじむるひとびとの、わが身(み)わるく、こころのわるきをおもいしりて、この身(み)のようにてはいかが往生(おうじょう)せんずるというひとにこそ、煩悩(ぼんのう)具(ぐ)したる身(み)なれば、わがこころのよしあしをば沙汰(さた)せず、むかえたまうぞとはもうしそうらえ。

(親鸞聖人御消息集(ごしょうそくしゅう)《広本》第一章より)
江戸川本坊 谷山周次

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