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2006年12月
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楽になるということが 救いではない

仕事を与えられることが 救いである

安田 理深

 十二月の法語は、安田理深(やすだりじん)先生の言葉に聞いて行きます。
 さて、皆様方はこの言葉を聞かれてどの様に感じましたでしょうか。先生は個人的な救いを否定され、公の救いを問題にされています。それが「仕事を与えられること」です。それではこの「仕事」とは何を言うのでしょうか。
 先生のお弟子の宮城顗(みやぎしずか)先生はある時「ねんごろ」と言う言葉に注目され、色々な辞書で調べられました。その内容は『人と生まれて』と題して出版されています。先生は「ねんごろ」と言う言葉の語源は「ねもころ」と言う字から転じた言葉であると言われています。「ねもころ」の「ね」は「根」と「如(もころ)」と言う字を書いて「ねんごろ」と読ませます。その意味は「根もからみつくほどに」と言う意味で、木がお互いに根を絡みつけ合っていて、その根を切り離す事は出来ない、別々にならない。一つになって生きると言う意味であると言われています。私共人間は本来、このねんごろの様な歴史を持った存在なのです。
 さて、その人間と言う字ですが、先ず「人」を書きます。これはお互いが支え合っている事です。そして次の「間」は間柄で関係です。ですから人間とは関係の中で、お互いが支え合い、助け合っているものなのです。その関係が人と人と、又、人と自然との関係です。この関係が無くなったら人間で無くなります。しかしながらその関係を壊す本(もと)になっているものがあります。それが自分の思いに執着する事です。私共はその事から離れられずに、一人ひとりが孤立し、心通じる事無く、又、自然を壊しながら、バラバラに生きています。先生はその様な自分中心の思いが破れたところに「公の救い」があると教えています。私共はその思いに行き詰まると、楽になりたい為に、神仏の力に頼る者や、自らのいのちを絶つ人などがいるのです。しかし行き詰まりは、念仏の教えを聞く良いきっかけとなります。そして教えを聞いて行くと道理を知り、今まで道理に背きながらも、本当の自分に成らずにはおれない意欲が湧き出て来ます。その意欲は人と人、人と自然との関係を回復させ、又、他の者にも気付かせて、心通じ合って生きて行く国土(社会)を開く意欲です。その意欲こそ私共が気付かずにいた本能です。それを教えからいただくのです。その意欲を「願い」と言い、その願いを背負って、他の者と共に国土(社会)を開く歩みを先生は「仕事を与えられること」と言われていると思います。
加藤 順節

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2006年11月
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人間に絶望はない。あるのは失望です。

廣瀬(ひろせ)杲(たかし)

 人間は得たり失ったりして生活をしている。それ故、思い通りにならない時が失望で、それが叶った時には「得望」となり、徹底して望みを絶つということはない。その証拠に、我々は絶望したと思っても、望みのものが与えられると、すぐにそれに飛びつくのである、と廣瀬先生の講義で教わった。
 私達は簡単に絶望したと考え、大切な人生を自暴自棄に過ごしてはいないだろうか。本来、絶望とは望みを絶つことである。私達は望みを絶たれても生きていけるのだろうか。失望と絶望はどこが違うのだろうか。
 私はよく失望するが、それは自分がもっとやれるはずだという思いと、現実には思い通りにやれない自分を知らされるからだ。自分ではそれを認めたくないので、失望を繰り返すと大変辛い。  
 しかし考えてみると、私達は、今まで自分の思い通りになったことが一度でもあったろうか。私はお正月に一年の計を立てるがそれが思い通りに実現出来たことはないし、この原稿を書いている今でさえ、決められた期日までに思い通りの内容を書くことが出来ずにいる。自分の力量、未熟さを認めることが出来ず、頭ではそれ以上に優れた自分を想定しているからだろう。それでは私達はどのようにして、失望を超えていく道があるのだろうか。真宗中興の祖である蓮如は、
 仏法はこころのつまるものかと思えば、信心に御なぐさみ候
と教えている。私達のありのままの姿を遠慮なく照らし出す仏教は、理想の自分を求めている私の思いには心詰まりでしかない。しかし優れた自分という夢を見るのではなく、現実の自己を見つめることが、私には大切である。「信心にて御なぐさみ」の信心とは、仏陀によって教えられたありのままの私を信じることで、本当の慰めや落ち着きを得ることを意味している。
そのように考えると、絶望とは私達の我執の望みは絶っても、実はありのままの自分を認めるということにもなる。絶望すべきことは私達の思い込みや善悪を必要以上に気に掛ける価値観である。しかしそれが私の力で出来るだろうか。曽我量深は、
 自力を見限るに勇断なる力こそ、自力以上の力である。
 (『偽善の妙趣』)
と述べている。
 失望は優越感や劣等感、懺悔といった自己反省から生ずるものである。自分の思いから離れることが出来ない私には、失望はあっても絶望は出来ないものである。しかし絶望は反省を超えたものではないだろうか。曽我量深は、
 我々が普通に懺悔道といふのは不徹底です。不徹底の懺悔といふことは徒に身を苦しめ、心を苦しめるものに過ぎぬ、さうでないかと思ふのであります。一般宗教でいふ懺悔道は救いの道でないのである。大抵徒に自らを苦しめるものである。大涅槃道といふところにいたって始めて懺悔道が徹底して、その自力の懺悔そのものがもう一つ否定否定せられ、そこに始めて救といふものがあるわけである。 
(『本願の国土』)
と述べている。私達は失望で終わらず、自力の懺悔を捨てて、そのままの自己で救われていかなければならない。小さな失望に止まることなく、ありのままの自分を生きることが、失望を超える道ではないだろうか。その為に、絶望すべき小さな我を捨てて、本当の自分を生きたい。

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2006年10月
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すでにこの道あり

竹下 哲

 今月の法語のサブテーマは、「すでにこの道あり」です。すでにこの道あり、出口があるのです。この道の方向以外には真実の幸福はないのですよ、ということを、親鸞聖人が七百年以上前の昔に、私たちに訴えてくださっていたのです。
 それでは、親鸞聖人の教えとは、その出口とは、一体何であろう。それは、大いなるいのちに目覚める”ということと言って良いのではと思うのです。大いなるいのちに目覚める、その道以外に真実の幸福の道はないのだぞ、と私は思うのです。
 私は人間というものの性質は大いなるいのちというものが分母だと思います。そして分子が自我の思い、この私の思いだと思うのです。私たちは、いつも大いなるいのちにすっぽりと包まれて、生きております。しかし、その分母である大いなるいのちを忘れて、分子である自我の思いに引きずられて、いつも右往左往しております。一言でいってしまうと、自分本位の思いです。いつもソロバン勘定をする思いです。いつも他人と比較して自分が良かったら優越感にふけり、「どんなもんだ」と思い、他人を馬鹿にし、「駄目じゃないか」と言う。
 そのような相対比較の世界、絶えず競争している世界、それが自我の思いなのではないでしょうか。そしていつも自分(自我)の観点から人を冷たく裁いていきます。あの人がどうだ、この人がどうだ、と自己の思いつきで裁きます。
 例えば江戸時代の川柳に『となりに蔵たちゃ、こっちは腹立つ』とあります。隣の家が一生懸命働いてお金を儲けて蔵を建てた。こっちは建てるだけのお金がないから腹を立てる。一生懸命汗を流して儲かって、そして蔵を建てることができたのなら、「おめでとうございます。よかったですね。」と言えることが出来れば良いのであろうけど、そうではないのですね。口では言うことができるかもしれませんが、腹の中では腹を立てている。自我の思いというものが本当に強い存在なのです。もしも、自身が反対に人から言われたなら、どう思いますでしょうか?
嬉しく思いますでしょうか、ありがとうと思いますでしょうか?嫌だな、と思うのではないでしょうか。私たちは自己中心の心を捨てきれない凡夫、そして煩悩と一緒に生きている愚者なのです。念仏の教えに出遇い本当の自分を知らされる時。必ず教えを求める者には阿弥陀様が、一人ずつ答えを用意され、約束されているのです。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光

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2006年09月
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どうしようもない わたしが 歩いている

山頭火(さんとうか)

『どうしようもない』
絶望ではない。
開き直っているわけでもないであろう。
ふと自分の有様に気づかされて口をついた言葉ではないでしょうか。
 他者のことを「どうしようもない   あなた」とは言えるけれども、自分のこととなると「どうしようもない わたし」とは認められない。
たとえば、失敗したときや間違いを起こしたとき、他者から責められたとき「どうしようもない わたし」ですからと言い訳したり開き直ったりすることはありますが、自分の力で成功したり他者の間違いや失敗を責めるときには「どうしようもない」ということはどこかへいってしまいます。
『身の事実』
「わたしが 歩いている」
ただ今生きて「わたしが 歩いている。」口では、「どうしようもない わたし」とは言えても、絶対に避けることの出来ない、身の事実として「わたしが 歩いている」。
 自分のはからいで、何事もどうにでもできるという思いにしばられているわが身、何かにしがみつき執着してしまうこの身を
聖人は御和讃に、

 

よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪(ぜんまく)の字(じ)しりがおは
おおそらごとのかたちなり  

是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ
このみなり
小慈(しょうじ)小悲(しょうひ)もなけれども        
名利(みょうり)に人(にん)師(し)をこのむなり

 

と詠まれました。
 ここに、「どうしようもない わたしが歩いている」という姿が顕かになってくるのではないでしょうか。
谷山 周次

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2006年08月
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「人は縁(よ)って生きるもの」

平野 修 

 この言葉は、平野修先生が小中高校生を対象にマンガ等を使って「生きるということ」について、お話をしてくださったなかにでてくる言葉です。
「てすりはつかまるためにあるのです」とこのマンガにあります。普段この〝てすり〟につかまる人は、目の悪い人や、足の悪い人です。健康な人は〝てすり〟の存在すら忘れて気がつかず階段を歩いているわけです。しかし、地震が起き、自分が立っておられなくなり、〝てすり〟に気がつき、あわててしがみつくわけです。ここで、〝てすり〟が示していることは、〝てすり〟とはもともと存在しているもので、この私が立つことを助けてくれているものであるにもかかわらず、この私はそのことに気がつかずにいるのではないか。その〝てすり〟に気がつかせない意識が、この自分にあるのではないかといわれているわけです。
 例えば、今この私はこの原稿を、畳にもたれて書いています。夜になれば私の体全体をこの畳に投げ出して寝るわけです。この私は、自分の力で生きているように思っているのですが、実はかならず何かにもたれかかり、助けられて生きている存在なのだと思います。しかし、そのことに気がつかず生きているのが、この私なのだと思います。そのことを平野先生は『人間はもともと縁っていきている。そういうことがいちばんもとにあるとするなら、人間は「助ける」ということも、もともとあることじゃないか』と教えていただいているわけです。
 自分は、本当は何のために生きているのか、どこへ向かって生きているのかということを、これまでこの私が常識的に学んできた感覚と全く違う感覚で〝生きるとは〟ということについて教えてくださっていると思いました。平野先生は「人は縁っていきるもの」という言葉を通して、人間の心の奥深くにある、「触れ合う」、「分かち合う」という心を教えてくださっています。
 最近、ある新聞で「ドリームマップで自分探し」という記事をみつけました。夢をもつ、なりたい職業を探すために、そのことを書き出し、自分だけの夢の地図をつくるということを、経産省の起業家教育促進事業として、小中高校を対象に行っているようです。プラスの価値を一生懸命集めて、マイナスの価値を下げていく・・・
「人は縁って生きるもの」という言葉から、仏法の自分探しとは、プラスやマイナスにふりまわされるのでなく「私は、私で良かった」ということを明らかにしようとしているのではないかと思いました。
森林公園・昭和浄苑 千部 英史

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2006年07月
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源空が信心も 如来よりたまはりたる 信心なり

善信房の信心も 如来よりたまはらせ

たまひる信心なり さればたゞひとつなり

歎異抄後序

 この文章は、親鸞聖人のお弟子である唯円という方がお書きになられた「歎異抄」という書物の後序の一部分です。
 この「歎異抄」は親鸞聖人がお亡くなりになられた後に書かれた書物で、親鸞聖人の口伝の真実信心に異なっている現実を歎いた書であることが告げられています。
 この「歎異抄」の後序に書かれている「信心同一」という事柄を今回のともしび掲示板に書かせてもらいました。この事柄は、親鸞聖人が法然上人のお弟子のときに、
「自分の信心と法然上人の信心は同じ信心である」
と言ったことに始まります。そのことを聞いた兄弟子の誓観房・念仏房が
「智慧や才覚のすぐれている法然上人と弟子である善信房(親鸞聖人)の信心が同じなわけがない」
と否定しました。
 それならば、法然上人に尋ねてみようということで、尋ねた結果が今回の掲示板の言葉でもある

 
 「源空が信心も
  如来よりたまはりける
  信心なり
  善信房の信心も
  如来よりたまはらせ
  たまひる信心なり
  さればたゞひとつなり」

 
と言われたわけです。
 このことは、
「法然上人と親鸞聖人の信心は如来よりたまわりたる信心であり、誓観房・念仏房の信心は智慧、才覚によって異なる自力格別の信心である」
ということです。
 このことを受けて私は、「自分の信心と親鸞聖人の信心が同じ」
とは思えませんし、思うこともありません。
 そう考えると私の思う信心とは智慧、才覚によって異なる信心ということです。勉強をしていて知識が豊富な人は信心が優れている。逆に私のようにあまり勉強もしていなく、しっかりしていない人間の信心は優れていない、という気持ちです。
 これは誓観房や念仏房と根本的に同じ
「智慧、才覚により異なる自力格別の信心」と思います。
 しかし、本当は信心に違いなどなく、信心を天秤にかけること自体が間違いだと思います。信心は量るものではないのです。あらためて自分自身がこの「信心同一」という事により、自分の勝手な思い込みで物事を量り、良いことだけを見て、邪魔なことは見て見ぬフリをして排除をする、自作作善の人間であると言い当てられたような気がします。
塚本 協

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2006年06月
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自らを燈明とし 他の者をよりどころとせず

法を燈明とし 他の者をよりどころとせず

釈尊

 毎日、テレピや新間を見ても、人が殺されたという報道を見ないときはありません。親が子を子が親を殺し、子供、大人同士、国同士も殺し合っていく。世界中の命が命を殺していきます。殺すというのはただ人の命を奪うということだけじゃない。自分の立場を守る為に、他人の立場を奪う。 自分の価値観で、他の価値観を抹殺する。その人の存在を無くす。人格を否定していく。それも紛れもなく殺人でしょう。そういった中で、今、何をどうすればよいのか、様々な人たちが話し合っています。何が悪いのだろうかと。法律か教育か、社会が家庭か、先生が親か、夫が妻か、兄弟が友人か、自分か他人か。それぞれが大きな問題で、これらひとつひとつを考えていっても解決するのは容易なことではない。むしろ私が実感しているのは、この現代の状況を生んだ原因は、私たちの世界から仏さまがいなくなったということじゃないかということです。家から仏さまがいなくなった。学校から世間から国から仏さまがいなくなった。そして、私たちの心が如来の心を忘れてしまった。そこに大きな原因があると思います。
 昔はよく、じいちゃんばあちゃんが仏さんに手を合わせていたでしょ。人さまから何か頂いたら必ず仏さんにまずお供えしてました。それからあらためて頂く。ご飯を食べるときでも、仏さんにお参りせんと食べさせて貰えなかったり。物を頂くのも、ご飯が食べられるのも、自分が偉くて立派だからじゃない、みんな仏さんのお陰さんやと。生活そのものに、いつも仏さまが、お蔭さんとして寄添ってくださってた。仏さまの信心が合掌の形となって、念仏申す姿そのままが仏さまだったんでしょう。そんなジジババが家からいなくなった。 手が合わさるお父さんお母さんがいなくなった。自分の家はまだ仏さんがいないからと言って、お内仏(ないぶつ)そのものが安置されていない。仏さんがいないとはどういうことだろう。死んだ人がいないという意味で言われているのでしょうが、 自分に縁のある人で死んでない人なんかいないでしょう。仏として生まれて往(い)った方々の命がお蔭さんとして、今の私を生きてるんだから、仏さんがいなくなったら自分もいなくなってしまいます。仏さんがいないなんて人は一人もいないんです。なのに、仏さまを家から閉め出してしまった。だったら私たちは何を頼りに生きていけばいいのでしょうか。蓮如上人は、御文(おふみ)に、「まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそうにとあるべからず。されば、死出(しで)の山路(やまじ)のすえ、三途(さんず)の大河(たいが)をば、ただひとりこそゆきなんずれ。」と言われます。頼みになるものは何も無いぞと。
 今号の言葉は、釈尊入滅の時に臨んで動揺する弟子の阿難(あなん)に向かって説かれた釈尊最後の教えともいわれる『自燈(じとう)明(みょう)・法(ほう)燈(とう)明(みょう)』です。お釈迦さまに頼り、すがろうとする阿難にきっぱりと、それは違うと言われたのです。私は無常である。この無常の私を頼りにしてはならないと。そのことに自らが目覚めること、自覚すること。その自覚を頼りとする。頼りになるものは何も無いということを頼りとする。それを自覚せしめるのがすなわち仏法である。仏とは目覚めたる者の意で、法とはダルマ、正しい教えと言うことです。 その法をよりどころとして、たゆまずに努力していくことを説かれました。親鸞聖人は御和讃に「かなしきかなや道俗の 良(りょう)時(じ)吉日(きちにち)えらばしめ 天神(てんしん)地祇(ちぎ)をあがめつつ ト(ぼく)占(せん)祭祀(さいし)つとめとす」といわれ、私たちが仏の正法に背き、日時に善悪をつけ、占いで吉凶を選び、それを頼りにして自らの生き方を決定している様を悲しまれています。教えを聞いても、それは他人を打ち負かす武器としか使わない。師をあてにして、法にではなく、人に服従する。そのような私たちの無明の闇を破ってくださるのがこの『自燈明・法燈明』の教えではないでしょうか。これがすなわち南無阿弥陀仏、そのものであり、救わずにはおれぬという如来の叫びだと感じます。
 今一度、この日本の国から、一人ひとりが如来の教えを燈明とし、手を合わせ念仏、申すことから始めてみてはどうだろうか。
大 空

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2006年05月
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別れても いつかまた 会えるよね

釋(しゃく) 浄光(じょうこう)

 私達は現在この社会に身をおいて、心の底から幸せです、と言い切れる人がおりますでしょう か。毎日朝から晩まで楽しくて楽しくてどうしよう・・・。おそらくそのような人は何処にもいないと思います。反対に、苦労を感じている方が大半を占めているのではないでしょうか。
 働いても、働いても、なかなか自分の思ったとおりに仕事が捗らない、計算どおりに事が運ばないというのが現実だと思うのです。
 では、私達は人間の命をいただいて生まれさせて頂き、本当に私が人間として生きているでしょうか。
 人間に生まれたことを存外あたりまえのようにしておりますが、この事はあたりまえの事ではなかったのです。”不思議として人間の命を頂いてきた”のであります。
 生命を頂いたということは、阿弥陀様の呼び掛けに問いを持ってその願いを聞いていくこと、その答えが私達に聞法を通して導き下さるものです。
 即(すなわ)ち教えを求める人たちには必ず阿弥陀様が答えを用意されているのです。教えて下さるように約束されているのであります。
 私達は欲望の真ん中で生活しております。しかし、その欲だけではいけないという想いが、心の奥底にあるのです。
 私達がこの世界に生命を頂いたということは、今日、唯今天下一品の命として生かされているのです。
 私達は何かを求めて生活しております。しかし、その何かが不明瞭なまま唯、何を求めているのかが分からないまま自分をごまかし、さしあたって間に合うもので間に合わせていると思うのです。
 では私が何を求めているのかと申しますと、実は「煩悩なのです、人間の煩悩、欲望を求めて きた」―この事は事実ではございませんか?煩悩には満足がなく無限なのです。又、対象化されるものが無常なる存在でございますので、次からつぎへと移り変わるものなのです。 現実には欲望の固まりの中で生活をしておりますが、実は真実の教えを求めているのです。仏教の浄土という言葉を使わせて頂きますと、私達は浄土を求め求道しているものなのです。 蓮如(れんにょう)上人(しょうにん)の御信心|は「病気する時は、病気がよろしく候。死ぬるときは、死ぬるが候」と言われております。
 まさに落ち着きなさっている御信心を頂いているのです。「人が死ぬものだと思うていたのに、この儂が死ぬ。これはたまらん」という法語があります。
 生きとし生けるものは必ず死していかなければなりません。それではなぜ死ぬのでしょうか、という問いが出てまいります。
 病気や怪我、事故で死ぬのではありません。死亡原因は、この世、この世界に生まれてきたことだったのです。そのことを心の底から分からせてくれるものこそ、念仏のちから、教えなのです。ですから、仏法とは「生命をいかに生きるか、いのち学」そのものであると思います。 「倶会一処(くえいっしょ)」~ともにひとつのところで、またお会いしましょう。お念仏の世界とは、まさに出遇いの世界であります。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光

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2006年04月
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阿弥陀さんは実際に おいでになるかと聞かれる

そう言う貴方自身は 実際にあるのですか

暁(あけ)烏(がらす)敏(はや)

 暁烏敏師は明治十年に石川県松任市の明達寺(みょうたつじ)に生まれ、清澤満之師(きよざわまんし)の門下生となり、師がご逝去された後、人生の殆どを各地に出向かれて講和をされた念仏者である。(以降敬称略)
 親鸞聖人は『教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)』の教巻に、念仏の教えの要が「二種(にしゅ)の回向(えこう)」であると言い切っておられる。その一つは往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。往相とは凡夫が浄土に生まれ行く相であり、還相とは一度浄土へ往生したものが、又この世界に還って他の衆生(しゅじょう)を救済する事である。その事を暁烏敏は恩師清澤満之をもって和讃に詠まれている。

 
久遠(くおん)実(じつ)成(じょう)阿弥陀仏(あみだぶつ)
清澤(きよざわ)先生(せんせい)と示(しめ)してぞ
真実(しんじつ)信心(しんじん)すすめしめ
定聚(じょうじゅ)の数(かず)にいらしむる

 
 この和讃を読みと暁烏敏は清澤満之の事を、久遠実成の阿弥陀仏が清澤先生となられ示現(じげん)されて、お育て下さったと師を拝まれている。示現とは仏・菩薩が衆生を救うために種々の姿に身を変えてこの世に出現する事を言う。これが還相と言う事であります。清澤満之と暁烏敏との出会いは、決して感動的なものではなかった。それは、暁烏敏が金澤の中学校から京都大谷尋常中学校三年に編入された時に始まる。暁烏敏は語る。「ちょうど学期の始めで、先生が一人づつ教室にきて、明日からの授業のやり方の話してゆかれる。すると教室の入り口に、丈の短い、色の黒い、布衣をきた一人の汚い坊さんが立っている。この番僧坊主なにしに来たかと思っていると、のこのこと教室に入ってきて、頭陀袋の中からスマイルズの『自助論』を出して、「明日これだけ読んで来い」という。驚いて、「あんな坊主に英語がよめるのか」ときくと、「あれが有名なる徳永満之先生だ」ということだった。(暁烏敏全集第十九巻・徳永姓は旧姓)清澤満之とは、文久三年(一八六三年)名古屋の藩主の家に生まれ、大谷派の僧侶となり、愛知県の西方寺の住職に就かれました。又、時の宗門改革(教学)に全力を尽くされ、大谷大学の初代学鑑(学長)を勤められた学匠であります。そして浩々洞(こうごうどう)と言う私塾を設立し、精神主義(清澤満之の人生に処する態度)を世に広められました。この二人の出会いは明治二十六年、清澤満之三十一歳、暁烏敏十六歳の時であったと暁烏敏は言われています。暁烏敏はこの出会いが縁で後に浩々洞に入洞され、清澤満之が四十一歳でご逝去されるまで日々お側にいてお教えを受けた。そして清澤満之を生涯の師とされて憶念されて行かれた。
 私どもにも様々な出会いがある。しかし自分自身の心が翻されるような人との出会いは遇いがたい。親鸞聖人は出会いを『値遇(ちぐう)』と言われた。教行信証の総序には、弥陀の本願との出会いを「値(もうあ)いがたく」と言い、釈尊の教え、インド・中国・日本の七人の高僧方の著述に、出会った事を「遇(あ)いがたく」と使い分けている。即ち、久遠より如来が私にはたらき続けているはたらきに、会いながら会えていなかった私が、やっと仏縁によって「遇う」事が出来た慶びを『値遇』と表現されている。値遇できなかった原因は我執にある。師はその我執の殻を私自らが内から破るように育てて下さる。師が外から破るのではない。師の言葉を通して如来の本願が私の中に宿る。如来の信(まこと)の心が私に宿るのです。そして一心に如来のお心に向かって行く力が湧出する。その力が内から殻を破るのである。破れてそこに新しい自己の芽が出る。それが本当の自己である。そして如来に向かって歩みが始まる。それが往相と言う事であります。我々が如来を証明するのではない。如来が我々を証明して下さる。如来が我々の前に来て存在を証明して下さるのである。暁烏敏は語る。「十万億佛土の向こうに行かにゃ会えないと思っておった仏さんも極楽も、南無阿弥陀仏を称える信心の中に味合わして貰えるのです。信心というのは、仏さんのお心が私の上に具わるのです。」と。
船橋昭和浄苑 加藤 順節

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2006年03月
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世界全体が幸福にならないうちは

個人の幸福はあり得ない

宮澤 賢治

 この言葉は、宮澤賢治の「農民芸術概論網要」のなかにでてくる言葉で、人と人との関係に生きる私が他の人と共に生きていくことはどういうことなのか、教えて頂いている言葉です。浄土三部経のひとつである『仏説阿弥陀経』の中に、『供(く)命(みょう)の鳥(とり)』という言葉が出てきます。その共命の鳥について、いいつたえをB子といいました。A子は頭もよく、性格もよかったのでみんなに好かれていました。しかし、B子は頭も悪く、性格も嫉妬深いのでみんなに嫌われていました。そのため、いつもB子はA子を妬(ねた)んでいました。そして、そんなある日、とうとうB子はA子に、毒をのませて殺してしまいました。しかし、体がひとつのため、やがてB子自身も死んでしまいました。人と人との関係の中で生きているのがこの私です。ひとつの関係をみんなで分けあって生きているのが、私達ではないでしょうか。
「あいつより私の方が大変なんだぞ」、「なぜ私だけがこんな思いをしなければならないのか」。私達は他の人と、自分とを比べて、自分のほうが勝れていれば善と、劣っていれば悪とする生き方にふりまわされているのではないでしょうか。そのことは、本当の命の世界(共にの世界)を、見失っているのではないでしょうか。
 A子とB子は、物理的にみれば平等ではありません。しかし、仏さまはみんな平等なんだよといわれます。この私はそのことに素直にうなずくことができません。A子とB子がなぜ平等といえるのか。どこでその平等が成り樹(た)つのか。その根拠(場)のことを、「浄土」という言葉で、あらわしてくださっているのではないでしょうか。
 最近、「人の心はお金で買える」という言葉が話題になりました。これは、この私の欲望の拡大こそが、私の幸福につながることであるという意味かと思います。
しかし、欲望を拡大していくことは、他の人を傷つけるだけでなく、この私自身が本当に生きるということを成り樹(た)たなくさせていることを、賢治のこの言葉が教えてくれているのではないでしょうか。
 私は、森林公園昭和浄苑に常駐している僧侶で千部(ちべ)と申します。昭和浄苑にお参りの際には、お気軽に声をかけてください。

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