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2006年02月
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朝(あした)には紅顔(こうがん)あって

夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり

蓮如上人「白骨(はっこつ)の御(お)文(ふみ)」

 この「白骨の御文」は私たり真宗門徒がよく耳にする御文の一つだと思います。
 私がこの御文を初めて耳にしたとき、この「朝には紅顔あって夕べには白骨となれる身なれ」というフレーズを聞き「なんだか恐ろしい事を言っておるな。」という印象を受けたのを覚えています。「朝には元気な顔をしていても、夕方には死んで白骨となってしまうかもしれない身である」というこの文、「死のある生(せい)」を生きている私たち全ての生き物に共通する事であり、私自身この御文を何度拝読しようとも、受け入れ難い問題であります。
「死」という誰もが避けては通れない問題を受け入れられない。「死」に対してなぜこんなにも他人事なのか、そう考えると、学生時代に学んだことを思い出します。
私は京都の大谷(おおたに)専修(せんしゅう)学院(がくいん)という学校を卒業しまして、證大寺でお世話になっております。その大谷専修学院で「真宗社会学」という授業がありました、その授業にて「死」について学ぶ時間がありまして
「死の風化(ふうか)」
「死の野生化(やせいか)」
という二つの言葉に出会いました。
「死の風化」というのは「死」という事を忌(い)み嫌い、できる限り「死」から私たちを遠ざけ、「死」を忘れさせようとする事です。
「死の野生化」というのは、私たちは死ぬ者や、死体を処理することができないため、死を身近に感じることができない。そのため、「死」に対する恐怖が異常に膨らんでいく事です。
「死の風化」「死の野生化」という事が存在するように、現代社会は「死」という事を忌み嫌い、私たちから遠ざけ否定する社会であると思います。
私自身、何度「白骨の御文」を拝読しようとも、受け入れる事ができない、「死のある生」を生きているとはどうしても思う事ができないままでいます。口では「死のある生」を生きる身である、といってはいるものの、それは自分の事ではなく、他人事であって、「自分は死なない」と思っている、「死」を否定し生きています。
この事に私は、自分への矛盾を感じ、開き直ることもできず、僧侶として「人の死」に出会うことが多くある身として、悩みつづけています。
ある先生は、私はこう言いました。
「悩み苦しんでいるピンチの時こそが逆にチャンスであり、阿弥陀如来に呼びかけられているのです。だから、そのお呼びかけに応え自分を決定し、如来と呼応(こおう)関係を築きなさい。」
この先生の言葉は今も私にはなかなか受け入れる事は難しいですが、今は「死」をとおして縁となっている出会い、その出会いにより「南無阿弥陀仏」という、お念仏をしている自分は、まぎれもなく自分であり、「南無阿弥陀仏」という六字を大切に頂き、如来の呼びかけに決定できるよう日々生活していきたいと思います。
 私は森林公園昭和浄苑で勤務している塚本といいます。浄苑に来られた時は気軽にお声掛けして下さい。

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