歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
本日の歎異抄・第六条 講義文 普段は、呼吸というものを意識しません。それでいて、この呼吸が止まればいのちは終わるというように、呼吸は大事なものなのです。生きているというのも、はからっているのではない、生かされている。生かされているという言葉は大事な言葉です。それはまた、みな平等なのです。お念仏というのは、まことの自然の行いである。はからって念仏するというのではなくて、催促によってお念仏している。この催促とは、自然のはたらきなのです。呼吸は肉体の自然現象であり、本願他力の自然のはたらきとは違うのではないかと思う人もおられるでしょう。しかし、これを分けて考える限りは、わかりません。
(弥陀の御もよおしにあずかって 156頁6行目~156頁11行目)