仏教人生大学
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
銀座キャンパス
資料請求・お問い合わせ
基本講座
仏教入門講座
聖典講座
教養講座
出張講座
外に出て学ぼう

Home トップページ  >  今月の法語  >  2016年11月

前の法語10件を表示
2016年11月
次の法語10件を表示

何処から何処へということは

人生の根本問題である

三木 清

科学の進歩には、目を見張るものがあります。物理学は、宇宙誕生の謎を解明しようとしています。

科学の方法は、観察して、物質を見つけ調べて、数量化します。そして、こうであろうと推理した物質相互の関係を、実験により明らかにしていきます。

人間は、この物質相互の関係を応用して、生活を便利にしてきました。そのため、近現代人は、ものごとを科学的に捉えることは、正しく、善いことだと考えました。人間の死についても、死とは、肉体という物質がなくなって観察も実験もできないから、きっと、自分のすべては無になるのだと、『人は死ねばゴミになる』という本を著わす人も現れました。

どうせゴミになる人生では、虚しさを意識下に閉じ込め、この世が華と、快・楽の追求に没頭する日々が続きます。だから、求めても快・楽が得られなくなると、これからの人生、果たしてこのままでよいのかという、疑問があふれ出します。自分を見つめ、自分は一体「何処から(来て)、何処へ(往くのか)」という人生の根本問題に真正面から向き合うことになります。自分の胸に手を当てて伝わってくる鼓動は、自分のものではあっても自分ではなく、自分の意思が芽生えるはるか以前から用意されていたのものではないか、と実感します。

自分が今、ここにいることの不思議さ、限りある命である自分はどうなっていくのか、という謎に思いを致すとき、自分の意思や能力をはるかに超えた、はかり知れない無限のはたらきがあることを、識ります。自分は、はかり知れない無限のはたらきから来て、そのはたらきに還っていく。すべてのことは、このはたらきに因るのだと気附かされます。この気附きにより、虚しさを意識下に閉じ込め、快・楽を追求してきた人生から、解き放たれ脱します。

いつも当たりまえに在ると思っていた、太陽や空気、妻や夫も、はかり知れない無限のはたらきに因るものだったのかと、あらためて在ること、居ることの不思議さ、有り難さに深く感じ入ります。はかりしれない無限のはたらきに抱かれ、そのままおまかせする、そのことに感謝するこころが湧き起こってきます。

抱かれて、そのままおまかせすることを「南無」と言い、はかり知れない無限のはたらきを「阿弥陀仏」と言います。こうして、「六字のみ名を、となえつつ、世の生業(なりわい)にいそしまん」の、おかげ様の人生がはじまるのだと思います。

森林昭和浄苑支坊 丸山 亮

前の法語10件を表示
2016年11月
次の法語10件を表示

いつも初々しく 小児のように

いま始めて 人生に臨むかのように

好奇心に目を光らせよう

毎田 周一

今月の言葉は毎田(まいだ)周一(しゅういち)氏の言葉です。
毎田氏は明治三十九年に金沢に生まれ、念仏総長、暁(あけ)烏(がらす)敏(はや)氏に師事されて仏教を学び、日本を代表する哲学者、西田(にしだ)幾多郎(きたろう)氏に学ばれました。
冒頭の言葉は、毎田氏の詩集「好奇心」と題された詩集から紹介致しました。
それでは先ず詩の全文を紹介致します。
「好奇心」
これでわかったという顔をすることほど哀れなことはない。命が枯渇(こかつ)しているからだ。いつも初々しく小児のように、いま始めて人生に臨むかのように、好奇心に目を光らせよう。いつも若芽のような人生、それこそは願わしい。とりとめもない、そしてあどけない人生、これで一生貫こう。わかったような顔をして、老人になってしまうことを君よ、一体命が許すか。
私共にとりまして分からないことや、不思議なことが多いですね。また大人と子供ではその捉え方が違っています。
そこで兵庫県豊岡市の本願寺派、東光寺住職、東井(とうい)義雄(よしお)氏(故人)の著書、『母のいのち子のいのち』(探究社)と題された著書の中から、四歳と十歳の男の子の言葉が取り上げていましたので、ご紹介致します。
先ず始めに四歳の男の子の言葉です。
「おもしろいな」
かあちゃん。かあちゃん、女やのに、ぼく男やのに、かあちゃんがぼくをうんだんか、おもしろいな。
次に十歳の男の子の言葉です。
「かお」
ぼくはおかあさんから生れたのに、とうさんににている。とうさんは、よそからきたのに、ぼくはとうさんににている。かあさんの腹の中で、いつのまにとうさんに、にたんだろう。
皆様方はこの二人の子供たちの言葉を、どのように受け取りましたでしょうか。この子供たちは不思議なことして受け取っています。
仏教の教えは、いのちの原点に戻って、真実は何かを知らしていただく教えです。私共の力を超えた大いなるはたらきによって、私共は生かされています。誰も例外なく、「貴方が生きているのではなく、いのちが今、貴方と成って貴方を生かしめています」と、はたらきかけています。このはたらきを「他力」と申します。
そしてこの子供たちの眼こそ、毎田氏の言葉に呼応した内容だと思います。
この子供たちの言葉は、本当に不思議なことです。私共が人間として生まれたことも、男や女に生まれてきたことも、不思議なことではないでしょうか。誰も皆、自分で自分を作って生まれてはおりません。今、ここに存在していることが不思議なことなのです。
しかし大人は分かったような顔をして生きています。しかしながら毎田氏は、「小児のように、いま始めて人生に臨むかのように、好奇心に目を光らせて」いれば、「いつも若芽のような人生」であると言われています。
そして毎田氏は、「わかったような顔をして、老人になってしまうことを、君よ、一体、命が許すか」と言われています。この「命が許すか」と言う言葉は、とても大切な言葉なのです。この度の毎田氏の言葉と、子供たちの言葉をご縁として、このことを共に「仏に教わる生徒」になって聞いて行きませんか。
 
船橋昭和浄苑支坊 加藤順節

  • 2024
  • 2023
  • 2022
  • 2021
  • 2018
  • 2017
  • 2016
  • 2015
  • 2014
  • 2013
  • 2012
  • 2011
  • 2010
  • 2009
  • 2008
  • 2007
  • 2006
  • 2005

ページトップへ