先日ひょんなことからたどり着いたフェイスブックのコミュニティ、『幸せのかたち』に助産師さんの記事が載っていた。記事を読んだとき、私はまさに目からうろこが落ちたのだが、後日、育児真っ最中の頑張る友人達にこの話をしたら、当然のように知っていたことにまた驚かされた。
いったい何の話かというと、赤ちゃんがひとつの尊いいのちとして誕生する出産の話。私はこれまで出産とは、母親が地獄の苦しみに耐え、母親自身の力で赤ちゃんを、新しい命を誕生させる、子に対し無限の愛を持つ母親だからこそできる仕事であると、そう思っていた。ところが、どうもそれだけではないらしい。
助産師さんがいうには実は赤ちゃんの方が母親よりも何倍も苦しいのだそうだ。陣痛は子宮の筋肉収縮らしく、赤ちゃんは収縮しているときへそのおからの酸素が途絶え、息が出来なくなるらしい。子宮の収縮は1分間。思い切り首を絞められ1分間。それが何度も繰り返されるわけで、これに耐えられなければ赤ちゃんは死んでしまうそうだ。まさに命がけである。赤ちゃんはとても賢く、陣痛に耐えられるかどうか判断し、一番いいタイミングで自分の生まれる日を選ぶそうだ。そのタイミングが来たら、赤ちゃんは自分で陣痛の起こるホルモンを出す。ということは、自分の誕生日は自分で選んだ日ということになる。助産師さん曰く、
「私たちはみんな、自分で判断して、自分の意志で生まれてくる。生まれたくて生まれたんじゃない!なんて人はいない。」
私たちは残念ながら生まれた時の記憶がない。ましてや自分の意志で、自分で決めて這い出てきたなど私は全く想像がつかない。思春期に「生まれたくて生まれたんじゃない!」と言ったか言わないか、逆にそんな記憶は多少なりとも皆さんもお持ちではないだろうか。この問題は、実はいい大人になった今現在でも、私にとって大きなテーマとなっていることに気づく。
私たちは様々な優劣をつけられる中、驕ったり劣等感に陥ったりするうちに本当の自分の尊さとか、生まれたい!生きたい!という、いのちの源にある生きる意志を忘れてしまっているのではないかと思う。この根源の願いといってもよい生きる意志は、能力とか学歴とか地位、名誉、財産では量れないということ。そしてこの願いはどこから受け継がれたものかという、いのちの歴史がすっかり抜けてしまって、いつの間にかいのちを刹那的にわが物としてしまっている自分にハッとさせられたのです。
お釈迦様は生まれた直後に立ち上り、右手で天を指し、左手で地を指して
「天上天下唯我独尊」
と云われた。これは自分は誰にも変わることのできない人間として生まれており、このいのちのまま尊いという何にも代えられない、己の生きる意志を示している。普段忘れてしまっている、そのままで尊い「自分」であったということを教えられた思いがした。
船橋支坊 溝邊 貴彦