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2011年12月
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もったいない ありがとう 南無阿弥陀仏 

田舎のおばあちゃん

 「もったいない・ありがとう・なんまんだぶつ」私の田舎に、この言葉しか言われないおばあちゃんがいた。
三月十一日に発生した東日本大震災から八カ月余りの時が経ちました。被災地ではなかなか復興は進まず、困難で不自由な生活の危機にさらされている方々が、多くおられるのが現状です。その現状をも忘れてゆく生活になっている自分がいます。
「勿体(もったい)ない」という言葉は、今日(こんにち)ではだんだんと忘れられてきました。
物が豊富にあることは一般には幸せなことのようでありますが、仏法の智慧からすれば、まことに不幸なことと言わねばなりません。何故なら、物の氾濫(はんらん)は物への慈しみ(いつくしみ)を麻痺させ、子供から大人まで「恵み」の有難さを忘れさせてしまうからです。
 また使い捨てに慣れた世の中は容器やゴミをまき散らし、道路や河川に捨てられているそれらをおちついて見た時にこのままでよいのだろうかと恐ろしくさえ思うことがあります。
 人間の知恵は、科学や経済を優先するあまり、より便利さを求め、物をたくさん作り出すことを善とし、それが人間にとって幸せなことと考えてきました。しかしその結果、自然を破壊し汚染することに慣れ、食べ物を捨てることも苦にならず、物を粗末にすることに慣れてしまったのではないでしょうか。
 仏法では「たくさん」であることを善しとせず、その物の「値打ち」を問題とします。
 そして私たちは、あらゆるものに込められている「恵み」に生かされ、ささえられていることを知らされるのであります。そこにこそ、何物も粗末にすることのできない厳粛な世界が広がるのです。
 しかし、三月十一日以前には、次々と作り出される品々を使い、便利できれいで明るく楽しい生活を求めてやまなかった、私たちがいました。現実を見る時、私たちは「恵み」に麻痺(まひ)するのは無理もないことかもしれませんが、ただこれに甘んじた姿には決して「幸(さいわい)」はないと思われます。
それが、三月十一日を機に、方向転換を迫られているのではないでしょうか。また、どういう方向へ転換しなければならないのでしょうか。多くの人の死を悼み、無駄にすることなく、声なき声を聞き、今までの便利できれいで明るく楽しさを求めて来た生活から、何かを学び、今ある生活の有難さを確認する方向転換をしていくことこそ、仏さまの「智慧」に照らされ、我々の思いどおりを求めてやまない自身を認めていくことの大切さを、田舎のおばあちゃんのことばから思いだされ、問われてきます。
南無阿弥陀仏
證大寺 森林公園支坊 渡邊 晃

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2011年11月
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菩薩は 希い(ねがい)にみちている

ダライ・ラマ14世

 この言葉は、『ダライ・ラマ法王 Teaching 2006 in 広島 両界曼荼羅伝授法会 前行法話会「道の三要訣」』において、聴講者の「お金持ちになれますようにと祈るのは、仏道に反するのか」という質問に対する法王の解答です。
 私達は仏の前でお参りをする、祈る、手を合わせ念仏申す時どのような心持ちでしょうか。純粋に感謝するというよりも、「何々でいられますように…」や「苦しみから解放されますように…」または、何か手を合わせお参りをしていないと不幸になるような、言い知れぬ畏怖や重圧を感じるといった事が少なくないのではないでしょうか。人は何かを欲する時や逃れたい時など、自分の力ではどうする事もなくなったら、藁をも掴む思いですがろうとします。これを自力といいます。第一に自分の思いがあって、対面に仏を見て宜しくお願いしますと。
 これに対して他力本願とは、第一に仏の願いがあります。例え私達がどんな状況にあろうとも、またどんな思いでいる時でもいつでも広大無辺に照らしてくださっているです。この仏の心にあずかっていくのがお念仏の教えです。お念仏とは、自分の願いの為ではなく、そこに何の畏怖も重圧もなく、徳を積む行でもなければ善行でもありません。説明も考えることもないのであると歎異抄にあります。以前ある先生にお念仏は赤子の反応と同じだと教わった事があります。しゃべり始めの赤ちゃんが「ママ」と呼ぶのは言葉の意味を知って言うわけではないでしょう。母親がお腹にいる時から「ママですよ」と呼びかけ、慈しむことに対する反応なのです。お念仏も仏の願い(呼びかけ)に対する我々の反応なのだという事。
 曽我量深先生は、『信に死し、願に生きよ』とおっしゃいました。自分の思いに執着するのを止め、仏の願に遇っていこうと…これが中々難しい。何故なら自分の思いとは、これまで築き上げてきた自分自身の事だからです。自分自身は正しいと信じてやまないがために、怒りや不満がでてくるのです。例えば近しい人に自分の嫌な面をズバリ指摘されたり、きつく諌められたりすると感謝よりも怒りがでてきます。さらに、これを当然とするということは、自分自身の思いに執着している事すら気付いていないということではないでしょうか。仏に願い事をしたり、取り引きしたりするのは、仏すら自分自身のものとしている証拠のように思うのです。
「菩薩は希いにみちている」これは、我々の願いを菩薩が聞き入れるということではなく、いつ何時でも菩薩はそんな私たちを受け容れるという事です。「希う」を辞書で調べてみると、「こいねが(う)」とあります。こいねがう、私には未だ仏の心にあずかれない自分に対する応援のように聞こえてならないのです。
江戸川本坊 溝辺 貴彦

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2011年10月
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生のみが我等にあらず 死もまた我等なり

清沢満之

 仏教では、「諸行無常」という教えがあります。ありとあらゆる現象のうつりかわり、変化してやまないことを言うこの言葉が、わたしたちの「苦悩」を解きあかすひとつの鍵(キーワード)となるのではないでしょうか。これは、わたしたちの生存の有り様を言い当てた道理なのです。聞法とは、その道理を聞くことなのです。自分を棚にあげて、「世の中は移り変わっているなあ」と眺めていることではありません。ほかでもない自分自身の、身の事実として聞いていくのです。
 ある法要のときに子供から、「ぼくのおじいちゃんは、どうして死んじゃったの?」と尋ねられて、答えに困ったことがありました。「病気で亡くなってしまったんだよ」と答えても、それはその子の質問に答えたことにならないと、とっさに感じたからです。「人間は、なぜ死んでしまうの?」と尋ねられた様に思いました。
大人はみんな、一応は知っております。人間、或いは生きとし生けるものはいつか必ず死んでいかなければならないことを。しかし、自分がいつ、どんなかたちで死んでいくのかをだれも知りません。自分自身の生死のことは何も知らないものなのです。それなのに、明日もあさっても五年後も十年後も、自分は生きていると信じて毎日を過ごしているのではないでしょうか。そして、ある日突然、大切な人を亡くし死に直面すると目の前が真っ暗になるのではないでしょうか。何故・・どうして・・・・。
 わたしの思いからすれば、わたしの死は不条理です。しかし、生かされて生きている人間は必ずや死していかねばならないのです、それが道理−法−です。法をそしり、自分の理屈だけで生活しているわたしたちの日常が、子供の言葉をとうして教えられたようにおもいます。
 わたしたちは、自分の根本の問い「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」を忘れていることに「気付かず生活している」のではないでしょうか。生かされていることを存外あたりまえにしておりますが、生かされていることはあたりまえな事ではなかったと「気づかされたその時」、事実の教えに光輝やいていけるのではないでしょうか。そのとき、いま・ここに、こうして生きていることに・・・。そこに信心の完成があるのではないでしょうか。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光

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2011年09月
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人は死んでも、その人の影響は死なない。

マーチン・ルーサ・キング牧師

 2011年3月11日14時46分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9,0の地震が発生し津波や火災で多数の死傷者を出した。
 東日本大震災から5ヶ月が過ぎ、いまだに余震が周辺各地で起こっている。警察庁の発表では、8月23日現在での死者は15,719人、行方不明者は4,616人となっている。震災後、テレビでは、毎日のように、被害情報が伝えられ、家族を亡くした人や行方不明のまま会えないでいる人たちの声が届けられた。
 言葉を交わした人ではないが、その心の叫びに共感して涙を流した。連日、自衛隊を中心とした行方不明者の捜索活動が続いていたが、月日が経つごとに生存の確率が下がることは誰もが承知する事実である。 しかし、それでも多くの人々がその中で行方不明になっている家族を何とか探してほしいと訴えていた。
 最近の世の中の風潮として「死んだら終わり」というような考え方が蔓延しているように感じる。テレビに出て来る有名人や・有識者と言われるような人達でも、死んだら終わりだから葬儀も要らないと、死を意味のないモノかのように話をしている。それは、死んだら終わりなのだから生きている間に自分の好きな事や自分の思い通りにしようという自己中心的な考え方をあたかも当たり前のように公言しているようでもある。
 先にいくものは後のものを導くという教えがある。ひとつの命がうまれて、ひとつの命が亡くなるこの繰り返しによって私の命にまでたどりついた。先にあった命のひとつひとつの歴史が私にまで関係し、私の命にまでなった。
「人は死んでもその人の影響は死なない」これは、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動したキング牧師の言葉です。 私たちは今まさに、人と人との関わりの中を生きているということを真剣に考えなければならないのではないだろうか。大切な人の死を考えた時、もう会うことはできないという悲しみの中で、また出遇っていくことのできる世界を教えられる言葉ではないかと感じます。震災でお亡くなりになられた、家族のみなさまには哀悼の意を表します。
合掌
森林公園昭和浄苑 佐治 敬順

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2011年08月
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信心に自己を発見し、往生は十方衆生を発見する

暁鳥 敏

 親鸞聖人が作られた正信偈(しょうしんげ)の始めに、「帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)・南無(なむ)不可思議光(ふかしぎこう)・法蔵(ほうぞう)菩薩因(ぼさつい)位(に)時(じ)・在世(ざせ)自在王佛所(じざいおうぶっしょ)・・・・」言う言葉がある。ここに法蔵菩薩と世自在王佛が登場する。これは 『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』が元になっている。この二人の出遇いを経典はこの様に説いている。
 昔、ある国に法蔵と言う国王がいた。ある時、世自在王仏の教えを聞いて深く感動し、師の様になりたいと、国と王位を捨て、修行者となった。そして過去に諸仏が建立した国土より優れた国土を建立し、生きとし生きる十方衆生を救済する方法を考えた。しかし未熟で分からない為、師に訪ねた。師は、「貴方自身で知るべきである」と突き返した。と説かれている。
 さて、この師の言葉の意味を暁鳥先生は、「おまえ自身に目覚めよ」と教えている。又、法蔵が建立したい国土は、「自ら教えを聞いて、自分が何者であるかに目覚めたところにある。」と言う。それでは本当の法蔵とは何者なのか。法蔵は国王で有った。そんな事では無い。 国王と言う事を自我意識として問題にしているのである。私共の中に素直に人に頭を下げられない心があるのではないか。即ち、自負心が邪魔をしているのではないか。謙虚な心を失っているのではないか。そう言う事を経典は国王意識として、自我意識として教えている。そしてその法蔵が教えて貰う人になった。それから教えに頭が下がる人になった。教えに頭が下がるとは懺悔である。法蔵が教えを聞いて知らされた事は、「人として生まれた意義が分からなかった事。だから地位、財産、名誉、自負心等、何も救いの要素にはならず、かえって人間らしく生きる事からずれていた。」と言う事だった。法蔵はその冨を失わない様に、大切に抱えていた自分を知らされたのである。実は常に法蔵の内面からその事に気付けと、はたらきかけていた、「はたらき」が有った。しかし法蔵は気付かなかった。それが師の教えを聞いて遂に行動となって動き始めた。その行動が、国と王位を捨てて、教えを聞く人になる事だと思う。この行動を起こすはたらきこそ、「人として生まれた意義を知れと言う、法蔵自身の内面からのはたらき」ではないか。法蔵とは何者か。それはこの「はたらき」である。この教えこそ仏が衆生を救済する為の根本の願いである。人として生まれた意義とは、「私を人間らしく生かせたいと言う、仏願の種を誰もが持っている事。」を知る事ではないか。その仏願を信(まこと)の心と言い、親鸞聖人は「信心」と言われた。暁鳥先生はその事を、「信心に自己を発見し」と言われたと思う。その信の心が自己となって、人々と共に聞法し教えている人が、世自在王仏で有った。法蔵はその師と、師が教える環境に出遇えた。先生の言葉に「往生」とあるが、往生とは、「人として生まれた意義を具体化して行く為の、師と環境が見つかる事」ではないかと思う。それが自我意識が回復し、人間らしく生きる第一歩ではないか。そう言う仏願の種を皆が気付かずに持っている事を見出せた感動を、「往生は十方衆生を発見する」と言われたと思う。

船橋昭和浄苑 加藤 順節

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2011年07月
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思いどおりになるものだ というところに迷いがある

安田理深

 私たちは、自分の思いどおりに事が運んでいるときは、意気揚々とし、自分や他人をいとおしく思います。けれども、思いどおりにゆかなくなると、その途端、意気消沈し、自分や他人を持て余してしまいます。そんな中で、自分の思いに適うものを増やし、思いに適わないものを減らしてゆけば幸せになれると思っています。
 しかし、どれだけ増やし、どこまで減らせば満たされるというのでしょう。そのように苦を避け楽を求めていくということが、堂々巡りをしているということがありはしないでしょうか。
どうしてそうなってしまうんでしょうか。思わぬことが起こってくるのが人生であるにもかかわらず、自分だけは大丈夫だと思い込んでいることに原因があるようです。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教は無常と教えています。
 その事実に目を覚まさない限り、自分の人生がいつまでも続くように夢見て、結局は空しく過ぎ去ってしまうと呼びかけられます。

「願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽(のこ)すことなかれ」
(親鸞聖人『教行信証』行巻)

 自分にとって楽しいことばかりでなくても、問題をかかえていても、その事実以外に自分の人生はどこにもありません。自分に都合のよい未来がやってくることを待っている間に、大切な今は過ぎ去ってしまいます。必ず死ぬ、限りあるいのちであるからこそ、何物にも代えられないのです。無常なるいのちの事実を深く念ぜよとは、今、生きていることのかけがえのなさに目覚めよ、との呼びかけなのです。いのちのかけがえのなさに目覚めるとき、次々と問題が起こってくる人生を生かされるのではないでしょうか。
 思いどおりにしていこうとする日常の私自身に問われています。
證大寺森林公園支坊 渡邉 晃

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2011年06月
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壊れない幸せを見いだして

東日本大震災で被災した方の言葉

 冒頭の言葉は、このたびの大震災で被災した宮城県美里町にある玉蓮寺住職の言葉です。 一部を省略して紹介させていただきます。

 真宗六谷派の本山、東本願寺で19日、宗祖親鸞の七百五十回御遠忌の最終期間となる3期法要が始まった。この日は約6千人が参拝。東日本大震災で被災した宮城県美里町の玉蓮寺の白木沢建生住職(55)や門徒ら14人も参拝した。
玉蓮寺は震災で山門が傾き、本堂は半壊。門徒5人が死亡し、家屋が全壊したりするなどの被害に遭った門徒も多く、いったん団体参拝を中止した。しかし、「末期がんで奇跡的に回復した方、昨年に夫を亡くした方などから参拝を強く希望する声があり、『途中で死んでも悔いなし』との思いで参拝を決めた」(白木沢住職)という。・・・(中略)・・・白木沢住職は「遺体安置所では、多くの棺の中の人々が私たちに『壊れない幸せを見いだしてくれ』と叫ぶ声が聞こえた気がした。それを全国へと伝えることが一番喜んでくださる気がする」と話していた。
(5月20日番MSN産経二ュース・一部省略)

 このたびの震災では1万5千人以上の命が失われました。真宗中興の祖、蓮如上人が「朝には紅顔ありてタには白骨となれる身なり」と白骨の御文で示された諸行無常を実感として日本中が感じています。
諸行無常とはすべての出来事、存在は常なるものがないということです。この道理を無視するところに、思い通りにならない私たちの苦しみも生まれます。
冒頭の言葉を述べた白木澤住職は「壊れない幸せを見いだしてくれ」と震災で亡くなったひとの声にならない声を聴きとりました。それでは諸行無常の世の中で、確かなものはなんでしょうか
 人は2度死ぬといいます。1度目は命を終えたときで、2度目はその人の名前を忘れたときではないでしょうか。名前を忘れたときに、その人の存在は私の中から消えてしまいます。反対にいえば、亡くなってもその人を念じるところに、死んでも死なないという働きがあるのだと思います。決して別れることのない出遇いがあるのだと思います。
 親鸞聖人は88歳の時に書かれた手紙で、35歳の時に、流罪によって生き別れた師匠の法然上人の言葉を「たしかにうけたまわりそうろう」「今にいたるまで思いあわせられ候なり」と述べています。「(法然上人から受け取った言葉を)今に至るまで忘れられない」という意味です。親鸞聖人にとっては、法然上人は過去の人ではなく、現在の自分の生きる道を指し示す指針であり、かなめ(宗)だったのです。
冒頭の住職の言葉は、震災で亡くなった方に向かい合う中から聞こえてきた言葉です。故人から何が願われているかを真に受けていくことで、私たちにとって生きるかなめ(宗)が明らかになるのだと思います。私たち、一人一人に故人から託されているものは何でしょうか。
證大寺住職 井上城治

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2011年05月
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義なきを義とす

親鷲聖人

 作家司馬遼太郎が小説に描いた幕末の志士、高杉晋作の臨終の様子は、とても印象深い。「晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼(ぼうとうに)が紙を晋作の顔のそばにもってゆき、筆をもたせた。晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。
おもしろき こともなき世を おもしろく
とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた。もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「・・・・・・面白いのう」
と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた」
(『世に棲む日日』文春文庫)

 晋作の二十七年と八ヵ月の生涯が、満足のいくものであったかどうかは本人でなければ知る由もない。実際のところ、晋作自信もよく分からないのかもしれない。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」この辞世の上の句に、私の心は惹きつけられる。私はこの世を面白く生きようとしている。悔いを残しながらも、なかばあきらめがちに人生を完全燃焼させようともがいている。そして、どうしようもない気持ち悪さと吐き気をもよおしながら過ごしてきた。それでもこれでいいのだと納得させようとするのなら、もはや自分をごまかすしかないだろう。この上の句からは、そんな悲しみの鼓動が伝わって共感するのだ。その悲痛ともいえる叫びに応じて、次の下の句が添えられたのではないか。
「すみなすものは 心なりけり」
「心」が私に棲み付いているという。「心」とは何だろう。自分が何ものかもわからない。ましてや「心」となるともっとわからない。その不可思議な「心」が、私に棲み、私をそのようにさせるのであるなら、もはや私の心の及ばぬ「心」であり、私のはからいが無効であることを知らしめる、私の思いを超えた「心」といわなければならない。
 晋作はこの下の句にふれて微かに笑みをもらした。なぜだろう。それは晋作がこの言葉で救われたからだと私は思っている。自(みずから)の理智を超えて、自(おのずから)助けようとはたらいてくださる「心」から、自分で自分を満足させようと悲鳴を上げていた心が救済されたのだと思う。「おもしろく」生きることに束縛されていた心が、苦悩の果てに、自然の「心」に出遇えた頷き、それが、「・・・・・・面白いのう」という晋作の最後の咳きになったのではないかと感じるのである。
 私は私の心で「義」をたてる。それを正義として他と交渉すれば必ず別の正義と対立し煩悶する。しかしそれは、みずからつくりだした「義」によって、自分が勝手に苦しんでいるにすぎない。その自力の心の束縛から離放させ助けようと起ちあがってこられた力が、仏の正義(しょうぎ)である。それを「他力」という。その他力が、私の「義」を消滅せしめ、そこに仏の「義」が起てられる。そして、それを感じることが出来るのは、やはり私の心の外にはないのである。最後に、親鸞聖人が遺された御和讃に訪ね、仏の「心」に出遇う道しるべとさせていただきたいと思う。合掌。

 聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり (『正像末和讃』)
江戸川本坊 大空

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2011年04月
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白骨となれる身なり

蓮如上人

 三月十一日未曾有の大惨事が我々を襲った。連絡の取れない友人がいて、山形の実家も自分も少なからず被害を受けた。死者行方不明者は戦後最大数、二十日現在で二万人を超えた。一瞬にしてそれだけの命が奪われ、その何万倍という人が恐怖と苦悩にかられた。テレビが伝える惨状はまさに地獄絵図そのものである。
今回場所や状況にかかわらず、震災を経験した人の心境というのは蓮如上人が生きた時代、餓えや死がごくごく身近にあった状況と少しも違わないように思う。余震や原発事故によって、震災の一瞬前までは考えもしなかった、自分自身の命に対する不安と先の見えない恐怖を多少なりとも実感したのではなかろうか。

「されば朝には紅顔ありて、タべには白骨となれる身なり。」
他人事ではなく、まさに自分自身の身の事として降りかかってきた。

 これまで私たちは技術や論理によって、こういった不安や恐怖を紛らわそうとしていた事に気づく。科学や医療の発達というものは、まさに安心、安全を求める心であり、裏を返せば死からの逃避である。そして、いつのまにか少しずつ慢心してきた。まさに煩悩具足の凡夫である。母なる地球を大切に・・・よく耳にするフレーズだが、何もかも奪い、今なお脅かされている今、果たして本当にそう言い切れるのか。地震、津波・・・自然災害は本来純粋な自然現象である。母なる地球の宮みが、ただ、私達人間の命を脅かす一点において災害となるのだ。
 震災から一週間が過ぎ、ネットを中心に様々な思いが噴出している。感じた事は、時間の経過とともに人の思いも変化するということだ。例えば過度の自粛は日本経済を脅かすという思いがある。反論も多数あるようだが、反論者も一か月後、一年後にはどうだかわからないという事。震災直後にはなかった思いであろう。人の思いというものは非常に不安定で、怪しいものである。
 全ての思いにはそれぞれ理屈があるが、全ての思いの根底にあるのは、失う恐怖(死)からの逃避である。仏教は老病死に対する恐れという人間の根底にある、このどうにもならない思いから出発する。二五〇〇年前にお釈迦様が抱いた思いと、今の私達の思いとは実はなんら変わりないのだ。大切なことは、“白骨となれる身なり”をどうしても受け入れられない、許せない自分を知り、その中で生きる、生かされるという事に少し真面目に考えることではないだろうか。
江戸川本坊 溝辺 貴彦

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2011年03月
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この法をば信ずる衆生もあり そしる衆生もあるべし

親鷲聖人

「この教えを信ずるひともあるし、また、そしるひともあるだろう」。と親鸞聖人は『歎異抄』の中で、弥陀の言葉をひかれています。

 人はそれぞれ顔、形がちがうように、その人なりの歴史があります。仏教では人間のことを「衆生(しゅじょう)」とよびます。衆生とは衆多(あまた)の生死を受けるものという意味です。また、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上といった、六道を輪廻して様々の異なる生を受けることから、「異生(いしょう)」とよばれます。そんな凡夫の集まりである人間社会であるから、それに応じて、様々に思惑をもった人間が、離合集散しています。仏教教団も同様でいくつもの宗派に分かれています。もともとは拠り所とする教典が違うために派が分かれたのでしょうが、お互いに「わが宗こそ尊し」「われこそ本流である」と主張し、いつの間にか相違を優劣の意識で受けとめるようになり、争論(あらそい)がおこるのです。
 世の中には、いろいろの意見や考えをもった人がいますが。お互いが自分の考えにこだわり過ぎて甲論乙駁(こうろんおっばく)の誤りを犯してはいないでしょうか。自分の意見だけは是とし、それと相反する意見にはさらさら耳をかさない。たとえ耳をかしても、その教えは間違いだと決め込んで認めようとしない。相手の言うことを十分聞くこともなく、ただ自分だけの考えおもいをおしつけるのは、耳をふさいでいる人、眼をとじている人といわねばなりません。では、どうすれば眼が開き、耳が聞こえるようになるのでしょうか。せっかく同じ世界に居あわせながら、ばらばらの生き方しかできないこの身のあじけなさが問われる時、はじめて阿弥陀仏の教法に出逢ったとき、この私が暗闇の中にあるときも、調子に乗って自分を見失っているときも、悲しみの中にあるときも、悦びの中にあるときも、迷ってどう歩むか分からなくなったときも、いつでも私に正しく、力強く人間らしく生きることを導きくださる。真実なる歩む方向をお示し下さるのです。「如来とともに歩む」これほど私に力強さと安心を与えて下さる道はないのではないでしょうか。その時こそが、耳が聞こえ、眼の開いた生活がはじまった時なのです。そして、自分の意見に賛成する人だけでなく、違った意見をもつ人もいる。そこに、相手の意見には賛成できなくともそれを十分聞きとり、理解しようとして、お互いに共通の広場を見つけだすことができるのではないでしょうか。

船橋昭和浄苑 黒澤 浄光

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