「ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら人間の 〝生命〟がのこるんだ。つまり、人間のほんとうの存在だけが生きる。」
先月に引き続き、岡本太郎氏の言葉をご紹介する。今月の言葉は、釈尊(お釈迦様)の出家に至る物語を思い起こさせる。
何であれ捨てるということはとても難しい。価値ある物ならなおさらである。一生懸命貯めた財産、築きあげた名声や肩書などなど…。自分が信頼し頼りにする、または喜びとなるような物をお持ちではないだろうか?「自分にはもう何もない」なんて言ってみても、いざ捨てるとなると「いや待って待って」となる。そういう心を執着といい、人間はこの執着する心から離れられないでいると、仏教は説く。
「見(けん)老病死(ろうびょうし) 悟(ご)世(せ)非常(ひじょう) 棄国財位入山學(きこくざいいにっせんがく)道(どう)」
『仏説無量寿経』
仏説無量寿経に説かれる、釈尊出家の様子である。釈尊は二千五百年前の北インド、ジャ力族の王子であった。王子様であるから何不自由ない満たされた暮らしをしていた。ある時、お城の四つの門で老人・病人・死人と出遭い、釈尊のなかで自分を満たしてきたであろう物質的な豊かさが一気に崩壊してしまう。老い、病に侵され死ぬことの前においては、如何なる物も意味をなさないという事に気付いたのである。諸行無常とはまさにこの事である。
釈尊はこうして国と位と財を捨て、出家されたわけだが、私たちはどうであろう。国と財と位と は、力と金と名営のことである。私たちは、これらをこそ人生の支えとして信頼し、それらがあれば豊かな人生を送ることができると思う。 しかし、いかなるものも老病死の前には無意味と化す事に私たちは中々気がつかない。老いる事、病気になる事、死ぬ事は負の事とし、見ないようにするのが人間であろう。しかし、いくら見ないようにしても老病死は誰にでも訪れ、逃れられない苦悩として私たちにのしかかるのだ。その時、これまで私たちが大事にしていたものは突然崩れ去り、疑わしいものになる。この苦悩の前では何一つ自分を満たしてはくれなくなる。信頼が崩壊するのだ。そして、
「人間の〝生命〟 がのこるんだ」
苦悩の先に私たちは何を見るのか。ただ〝生きる〟という人間の根源にある願い、執着という名の厚い鎧を剥いだ真の願いに気づかされるのか。仏教は、生きる事の根源たる苦悩に真正面から向き合う。たとえ普段執着する心から離れられない私たちでも、苦悩する正体を知ること、 向き合う事は大事なことである。仏法を聴聞するということの大きな意味はここにある。
江戸川本坊 溝邉 貴彦