ある動物園でのことです。苑内案内プレートに「この世で一番おそろしい動物です」と、書かれてあったそうです。そのオリの前にたった人はだれしも「この世で一番おそろしい動物とはなんだろう」と、こわごわのぞきこむそうだ。のぞきこんだところに、おおきな鏡がおいてあるということであります。
ちょっとおもしろい話ではないでしょうか、「この世で一番おそろしい動物ってどこかにいるとおもっているんですかね。その、のぞきこんでいるあなたこそ、この世で一番おそろしい動物ではないですか」と、一枚の鏡がよびかけているのです・・・。
人間の眼(まなこ)で見、人間の分別でとらえているかぎり、どこまでも、おそろしいものや浅ましいものは、外にいるとしかおもえないのでしょう。「いくさきむかいばかりみて、足もとをみねば踏みかぶるべきなり。人の上ばかりにて、わがみのうえのことをたしなずは、一大事たるべき」と、蓮如上人は仰せくださったのです。(無耳人 む・に・にん)、(無眼人 む・げん・にん)といわれれる、人間の知恵の愚かさであります。
なによりおそろしいわが身に出遇うためには、どうしても仏さまの智慧の眼をいただかなくてはいけないのです。
「この世で、恐ろしいものは、わが身、心がおそろしい」
人間は、「虚仮不実の身、清浄の心さらになし」を足もとふまえて生きているが、同時にその足もとの事実を忘れていきているのも私達であります。愚かとも、浅ましいともいわれている所以であります。
仏法とは、自分自身を照らし出してくれる 鏡ではないか、仏法を聞かしていただいていると外だけを向いていた眼が、だんだんと自身の心の内面をみるようになる。「しかし、実際は「外」を見ては」、 「三毒の煩悩」で生きておりませんか、(むさぼり)、(いかり)、(じぶんかってなおもい)これは、お釈迦様の教えで、この三毒に支配されていると教えられております。
「わが身は、現に罪悪生死の凡夫まさしくこれのみがたったひとつのまちがいのない真実である」と、曽我 量深先生の仰せであります。愚かなもの、浅ましき業深きものといっても、どこかにそういう人がいるのではないのです。この身をたまわって、いま、ここにいきている私がいるのです。
このいのちが、まさに真実の教えに出遇わせていただき、弥陀の本願をいただく事が問われている時ではないでしょうか。
船橋支坊 黒澤 浄光