大谷専修学院の元学院長である信國先生がお亡くなりになる二か月ほど前、学院の講義に先立ってお話しされた中の言葉である。入院、長期療養から戻られた先生はすでに自分の命がいくばくもない事を知っておられたのであろう。この言葉の前に「今後あとわずかですけれどね、わずかですけど…」とおっしゃっている。また、病気を通して、先生は「雀がチュンと鳴き烏がカァと鳴くように、おのずからナンマンダブツと口にする」そういうことにあらためて実感されたそうだ。念仏は身体に身に付くものであること、仏法は身体の問題であるということを明言されている。確かに田舎の祖母や、村のじいちゃんばあちゃんは事あるごとに「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と口をついて出てくる。悲しんでいる時も、怒っている時も、笑っている時ですら「ナンマンダブ」まさに、鳥が鳴くのかの如く自然である。子供のころは不思議で仕方なかったものであるが、今思えばそのことかと思われる。
真宗の教えは身体に直接訴えてくる。聞法していると、しばしば耳の痛いような、聞きたくないようなことがあるが身体がちゃんと反応している証拠なのだろう。手加減なしでビシビシと訴えかけてきて、ごまかしなど一切ない。はたして今自分がどこに立って、どこを向いているのかはっきり知らされる。そんな身体を持っているからこそ、自然に「ナンマンダブ」が出てくるのかもしれないなあと近頃感じさせられる。このことに気づくことは容易でないのかもしれない。ともすれば私たちはそんな「ナンマンダブ」すらを自分勝手に使い、またそれが念仏だと思ってしまっていないだろうか。念仏していれば極楽に行ける、毎日念仏しているからきっといいことがある、何回念仏したから・・・それは自然ではない。身に付いた真実ではないのである。『愚者になって往生す』(末灯鈔)とあるが、まさに身体の本当の姿(愚者)を知らされた時、口をついて勝手に出てくるのが「ナンマンダブ」なのであろう。
そして、そんな身体を持ったもの同士だからこそ、本当に出会うということがなかなか難しいのではなかろうか。ただ、身体の根底には出会いたいという願いが確かにあるのかもしれない。願いはあるのに自分を量り、そして相手を量る。なんとも厄介な身体を持ったものである。
江戸川本坊 溝邊 貴彦