ある少年が交通事故で瀕死の重傷を負った。両親がかけつけたときにはすでに虫の息で、何日も少年は生死のさかいをさまよいつづけたとのことです。医師は少年の父親に、とても助かる見込みがないと告げられました。
「どうにかしていのちだけは助けてください」と、父親は医師に涙ながらお願いした。
「できる限りの努力は惜しまないつもりですが、たとえ助かったとしても、もとのようにはなれないでしょう。意識も正常にもどることはまったく期待できません」。
この医師の言葉は両親にとって絶望的な宣言だったでしょう。それでも父親はひたすら、愛する息子が死をまぬがれることだけを願ったのです。それから、数日が過ぎました。
「ほんとうに息子は助かるのだろうか。いや万一助かったとしても医師の言うように、一生涯体が不自由な人間として終わるのだろうか。そんな無惨な人生を息子に送らせて幸せなことだと言えるだろうか。生涯そんな息子の苦しみを見つめて、年老いていくわれわれ夫婦がこの人生にたえていけるものだろうか・・・。むしろこのまま安らかに死なせてやった方が、この子にとっても幸せなのではないだろうか」ほんのすこしだが、この父親の心にそんな思いが浮かんでは消えた。そして少年は、その夜遅く事故以来一度も意識をとり戻すことなく死んでいった。それからというもの、自分たちはずいぶん悩み苦しい思いをされたそうです・・・。
「息子にとっては、ほんとうに死んだ方が幸せだったのだろうか。どんな姿でも、やはり生きてゆきたいと息子のいのちは願っていたのではなかろうか。自分はほんとうに息子のことだけを考えていたと言い切れるのだろうか・・・」。
仏法は私たちに人間の行為は、ことごとく「虚仮の善・虚仮の行」であると教えているのです。みせかけだけの偽善、それが私自身の正体だったのです。自分のそんな正体を思ってみたことすらないわが身知らずが、善人づらをして安楽死の可否まで考えていた。
「虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」。
親鸞聖人は、和讃でこう呼びかけられ、わが身を照らしだされてわれわれは、照らす光の中にある自分を見いだすことができる。照らされた自分のほんとうの姿をひとたび知ると、もうその光からのがれることはできない。何が善であり、何が悪なのか。いずれが真であり、いずれが偽りであるのか。他力をたのむ本願念仏よりほかに、真実の教えに逢うことがないものなのです。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光