私はこの法語を見たときに、私が日々問われている事をさらに深く問い詰められたような気がした。優しそうな言葉とも感じるこの法語だが、厳しさを感じ、その厳しさの中に温かさを感じたというのが感想だ。「今日の尊さ、今日のありがたさ」とあるが、果たして私は今日という一日を大事に生きているのだろうか。最近こういった問いが私を問い詰める。「生活」とは生きて活動すること、私たちの日常生活は単なる活動であり、本当に生きて活動していない。と元大谷派宗務総長の訓覇信雄師は言ったという。 本当に生きるとはどういったことなのだろうか。
「空過」という言葉がある。字の如く空しく過ぎるという意味だ。私の日常生活は単なる活動であり、本当に生きていなく、まさしく「空過の生」を送っているのではないだろうか。私は法要等でお話しさせてもらうとき、「阿弥陀さんの呼びかけに気付き、一日一日を本当の意味で大事に生きることが大切なのではないでしょうか。」という言葉で締めくくる事が多い。しかし私自身もそれを出来ないでいる。出来ないでいるからこそこの言葉を法話の締めに使っているのかもしれない。心のどこかでは空しく過ぎる自分の日常に嫌気がさしているというのは事実であり、だからこそこの曽我量深師の言葉を「ともしび掲示板」に使用したのだろう。人と人が衝突を繰り返す日常、勝った負けたと優劣をつけるこの日常こそ私がどっぷりと浸かっている空過の生活なのだとつくづく思う。
親鸞聖人がお書きになられた和讃の中に、
本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
「高僧和讃」
という和讃がある。この和讃は阿弥陀仏の本願力に出遇った者は空しい時を過ごすことがない。という意味だが、本願力はきっと私に遇おうとしているのだろうが、私がそれを拒否しているのだろう。もっというと遇おうとしていることにも気付かないでいるのだろう。
「今日の尊さ、今日のありがたさ」この言葉は本当に深いところから出ていると思う。「今日を尊く生きよう、今日をありがたく生きよう」と思っている限りはきっと本当の尊さ、ありがたさは見えてこないのではないか。 本願力に出遇うからこそ見えてくる尊さ、ありがたさではないか。それは心のどこか深くから呼びかけてきている捨て去れない私自身の問いであり、本当の意味で「生きる」ということに繋がっていく唯一の道ではないかと思う。
森林公園支坊 塚本 協