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2009年01月
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念仏者は、無碍の一道なり

『歎異抄』第七章 親鸞聖人

 人間の智恵と努力による現代の科学技術の発達には目ざましいものがあります。
今日、百年後の世の中など全く見当もつかないような状況であります。こんな時代が進歩しても、人間である我々(私自身)の方は一向に進化も進歩もしていません。相変わらず、食べなければお腹が空き、その食べたものに不満を言い、思い通りに都合よく人をレッテル貼りしてゆくしだいです。医学が発達したからといって多少寿命をのばすことができても、持ち分や性格、根性を変えるなど不可能であり、相変わらず明日をも知れぬ、はかないいのちの持ち主であるわけです。
 そのうえ、人間が作った機械や道具にふりまわされ疲れたり、人間関係においてノイローゼになったりもします。近ごろ本来の病気を治すために色々と考え出される薬が、逆に心身の他の部分を冒していくという薬害といったものも社会問題のひとつとなっています。あるいは、人間の幸福のために考え出された便利な機械や道具の利用も、いつ人間を破壊させるかわからないという危機が常にあると言えます。
 このように、人間の幸福を与えるために発達してきた科学技術も、現実には不幸や不安をも同時に我々に与えています。そして人間の生きざまには精神的に窮屈なものを残しているようです。
 人間が生きるということについては、我々人間が智恵をしぼり出した科学技術に限界がある以上、人間の考え出したものに頼ることにも限界があることになります。
こんな私たちが生きるには、念仏のおしえに(仏法の真実)に頼らざるを得ないわけであります。
これがまさにさいごの依りどころ「畢竟依(ひっきょうえ)」と言われるところで、親鸞聖人の『和讃(わさん)』には、

 
 清浄(しょうじょう)光明(こうみょう)ならびなし
 遇斯光(ぐしこう)のゆえなれば
 一切(いっさい)の業繫(ごうけ)ものぞこりぬ
 畢竟依(ひっきょうえ)を帰命(きみょう)せよ

 
とあります。この『和讃(わさん)』のこころは、阿弥陀仏の清らかな光のはたらきはほかに並ぶものはなく、その光はいかなる民族、文化、思想をこえて遇う光であるから、どんな苦しみ、悲しみ、悩みからも解放されていきます。そのような最後の最後の依り処である南無阿弥陀仏に頼るしかないと教えられています。
 人間の生活様式は、時代と共に変化してゆきますが、生きざまはいつの時代も変わることがありません。
 その人間の思慮分別を超えた、念仏のおしえ(仏法の真実)においては、すべてにおいて絶対なものとして私たちに与えられているのであります。
『歎異抄』に「念仏者は、無碍の一道なり」と親鸞聖人の言葉が示されていますが、この一言に今言わんとするところが集約されているのです。
 無碍の一道とは、真の自由を生きることであります。これは、我がままにということではありません。「我がまま」とは文字通り自分の都合だけを考えているので、都合のよい間はご気嫌であるが、ひとたび裏目に出ると腹が立ち、愚痴が出て、不自由であります。
 真の自由とは、どのようなときにもどのようなことでも素直に受け容れて、むしろそこから何かを学んでいくということであり、そのことを親鸞聖人は残して下さったのです。
そこに私自身依って生きたい。
森林公園支坊 惣持 晃

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