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2008年12月
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愚者になりて往生す

法然 

 今回のともしび掲示板は、師匠を持つことについて学びたい。親鸞は最晩年の八十八歳の手紙にて、故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを・・・(中略)・・・今にいたるまで思いあわせられ候うなり。と述べている。ここでいう「浄土宗」というのは、法然が開いた専修念仏(だれでも念仏一つで救われる)の教団である。専修念仏の弾圧により親鸞は流罪され、法然と五十年以上前に生き別れているが、一生涯、法然を師匠として念じ続け、さらには
 親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと「よきひとの仰せ」をかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり『歎異抄』第二条
と述べ、師匠である法然を「よきひと」と述べている。なぜ親鸞は「法然の仰せ」といわずに、名前を伏せたのだろうか。
曽我量深は、
 法然は智慧においても、徳においても、学問においてもすぐれたひとであろうが、親鸞にとっては、ただよきひとである。法然上人のえらいところをあがめるのではなく、ただ愚痴にかえって如来の教法をいただき、如来の正法を伝えてくださるという意味でよきひとである。『歎異抄聴記』
と述べている。法然は当時の仏教界で誰もが認める大物である。それゆえに法然上人を利用しようとしている野心家も多かった。
そのようなひとは、師匠は大物であればだれでも良かったのである。親鸞にとって、師匠とは肩書きではなく、親友を知己というように、私のことを最もよく知っているひと、私が本音で語りあえるひとが、私にとってのよき人であり、かえって肩書きは邪魔になったのだと思う。しかし私達は「この人に出会えばすべてが解決する」というような出会いを求めていないだろうか。同様に占いや風水、命名診断などを好み、自分以外の何かによって、自分の運命を変えてもらうことを願ってはいないだろうか。
 道から外れたことを行うひとを外道と呼ぶが、本来は仏教の言葉で、「仏道以外の教えを信じる人」というほどの意味である。しかし親鸞は
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり
と述べ、除災招福のみを求め、自分を省みることがなければ、仏教徒であっても外道であることを示している。宝くじに当たる
ことをねがうように仏教を利用して願いが叶えられても、自分自身の内面は何も変わらない。外道とは自分の人生を他者や他事に責任転嫁をし、主体を奪われているありかたである。
仏道は外道に対して内道、または覚道と呼ばれる。それは物事の原因を外側に責任転嫁せずに、自分の内側に求めていく智恵を与えられる道である。
しかし実際に思い通りにならない問題に当たると、条件反射のように「~のせいだ」「~が悪い」と他者に責任転嫁していく。これも原因を自分の内側にみず、外側に求めていく点で外道であるが、この問題が大変に根深いものである
 最近は日本でも裁判を簡単に起こすことができるシステムができつつある。そうなれば、自分の過ちを簡単に認めることは、敗北であるような価値観がますます蔓延していくように感じる。しかしそれでは本当の解決にはならない。それに対する方法を簡単に出すことは出来ないが、曽我量深の言葉を最後に引用したい
 師を頂くものは我情を折って聞く立場にあり、そこには無限の智慧の大海の廻向の裡にあり、師なきものは人を折伏していくほかに道なし・・・(中略)・・・師あるものは受けて頂く安らかさにあり、師なきものは持ち出して押しつけねばいられぬという不安がある
と教えられた。自分の弱さや問題を語り合い、ともに教えに尋ねていける人を見出す、その大切さが仏道に伝えられている。
證大寺 住職

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