「亡き父は生前中にお寺に参ったということもなく、両手を合わすというようなこともなかった生活を送っていました。わずかの苦しみで亡くなったのですが、やはり案ぜられます」
「心配されることはありません。仏になっておられます」
「私から見れば邪見(間違った考え)なところや邪険(無慈悲なこと)なところのあった人です。それでも仏になっているのですか」
「そうです」
「それなら世間でよく〈死んだら仏〉と言いますが、あれと同じですね」
「そうです」
「それならば仏法を聞かなくても、お念仏もうさなくても仏になるのですか。何をしていても仏になるなら、したい放題、好き勝手なことをして一生送ったらよいというようになってきます」
「したい放題、好き勝手なことをして一生送ったらと言いますが、それも縁がなければできません。してはならないと思っていても、悪縁にあったらしてしまいます。そのような私を仏様は無条件に信じ、敬い、応援してくれています。仏法を聞き、念仏を申す中で、散々そのことが分かってきます。そのことが分かればますます仏法を聞かずにおれなくなります。私達は死にたくないとどれほどあがいても、もがいても、死なねばならぬ時は、自力のはからいは無効、役に立ちません。すべておまかせ、力なくしておわるとき、南無して阿弥陀の世界にまいるのですから、間違いなく仏になるのです」
「・・・・・・・」
「問題は死ぬ時に南無して、阿弥陀の世界に還るより、何故生きている時、今、生活の真最中に阿弥陀仏に南無する生活をしないのか、ということです。また、死んだら必ず仏になるなら何をしてもよいではないか、というなら、今の私の生活は何の生甲斐もない、寒々とした空しいものになってしまいます。
阿弥陀様の教えとはどれほど欲望に満ち、煩悩いっぱいの生活者であっても、その煩悩までもが光輝いてくるのです。亡くなられた人はただ煩悩を燃やすだけの生活で、真実道を歩んでおられなかった、しかし心の中でどれほどか空虚感を抱いておられたことか、そのすがたを後に遺して下さったのですから、やはり仏さまです」
そんなの関係ねぇーと、いくらさけんでいても、何時も何処までも私達に阿弥陀様が真実の教えを共に学んで欲しいと願われているのです。
船橋昭和浄苑 黒澤