この歌詞から、みなさんは何を感じるでしょうか。
私は、当初この歌を聴いたとき「人種差別」のことを感じましたが、後々考えてみると「人種差別」ということだけではなく、私自身が心の中に持っている「差別」という体質を言い当てられたような気がしました。
「このぼく」の外見的なことはわかっても、心に何を考え、何を感じ、何を大切に生きているというそんなことは一つもわかろうはずがない。皆、赤い血が流れ、それぞれに個性があり、同じ人間なのに、生まれや見た目で「この人は善い人だ」「この人は悪い人だ」「この人は頭が良い」「この人はバカだ」と自分だけの勝手な解釈で決め付けてしまうということは決してあってはならないことだ。
しかし、私自身、差別的感情が自分の中に無いというと、嘘になる。
仏法を学ぶ者として生きている私はこの決してあってはならない差別を日々、実行して生きている。「生まれや見た目で自分勝手な解釈をして決め付けてしまうということは決してあってはならない」「差別はいけない」と言ってはいても、日常の私は自分にとって、「都合の良い人、悪い人」「好きな人、嫌いな人」と分け、「都合の悪い人、嫌いな人」を排除し差別して生きている。社会の問題として起こっている「人種差別」「部落差別」ということに関心は持っているものの、本当の私はこのことをどこが別世界の出来事、他人事という思いがあるのかもしれない。
例えば、私が人に出会うとする。誰かがその人のことを「あいつは今までいろいろな悪いことをしてきて、とんでもない奴だ」と言うとする。それを聞いた私はその人に対して、少なからず悪いイメージを植え付けられ、その人の本質を知らずに自分勝手な解釈をして接してしまい、場合によっては「あいつは嫌な奴だ」と排除し差別してしまうだろう。
この私の「差別心」とこの「青空」の歌詞で言っていることは根本的に何も違わないのではないか。
しかし私は「人間だから差別するのは仕方がない」と開き直りこの差別心を流して生きることができない。それは私が仏法というものに触れているからかもしれない。差別をする自分と、差別をしてはいけないと言っている自分、そして如来の本願(選ばず、嫌わず、見捨てず)という三つ が私の頭の中で葛藤している。
このことは以前専修学院の院長であった竹中智秀先生にこう言われた。
「あなたが悩んでいるピンチのときこそ、逆にチャンスであり如来に呼びかけられておる。その如来の呼びかけに自分を決定して歩みなさい」
この言葉を言われた私は「如来の呼びかけ」に決定するということ以前に呼びかけられているということすらわからずにいた。
しかしこの言葉は学院時代で心に残る言葉の一つであり、今もそしてこれからも忘れることのない言葉であろう。
この言葉を言われて早二年、残念ながら未だ如来に呼びかけられているという実感はなく只々葛藤が続くばかりである。いつか私は如来の呼びかけに応じ生きていくことができるであろうか。仏法を知識と本質で受け止めることができるよう日々精進していきたい。
塚本 協