人間は得たり失ったりして生活をしている。それ故、思い通りにならない時が失望で、それが叶った時には「得望」となり、徹底して望みを絶つということはない。その証拠に、我々は絶望したと思っても、望みのものが与えられると、すぐにそれに飛びつくのである、と廣瀬先生の講義で教わった。
私達は簡単に絶望したと考え、大切な人生を自暴自棄に過ごしてはいないだろうか。本来、絶望とは望みを絶つことである。私達は望みを絶たれても生きていけるのだろうか。失望と絶望はどこが違うのだろうか。
私はよく失望するが、それは自分がもっとやれるはずだという思いと、現実には思い通りにやれない自分を知らされるからだ。自分ではそれを認めたくないので、失望を繰り返すと大変辛い。
しかし考えてみると、私達は、今まで自分の思い通りになったことが一度でもあったろうか。私はお正月に一年の計を立てるがそれが思い通りに実現出来たことはないし、この原稿を書いている今でさえ、決められた期日までに思い通りの内容を書くことが出来ずにいる。自分の力量、未熟さを認めることが出来ず、頭ではそれ以上に優れた自分を想定しているからだろう。それでは私達はどのようにして、失望を超えていく道があるのだろうか。真宗中興の祖である蓮如は、
仏法はこころのつまるものかと思えば、信心に御なぐさみ候
と教えている。私達のありのままの姿を遠慮なく照らし出す仏教は、理想の自分を求めている私の思いには心詰まりでしかない。しかし優れた自分という夢を見るのではなく、現実の自己を見つめることが、私には大切である。「信心にて御なぐさみ」の信心とは、仏陀によって教えられたありのままの私を信じることで、本当の慰めや落ち着きを得ることを意味している。
そのように考えると、絶望とは私達の我執の望みは絶っても、実はありのままの自分を認めるということにもなる。絶望すべきことは私達の思い込みや善悪を必要以上に気に掛ける価値観である。しかしそれが私の力で出来るだろうか。曽我量深は、
自力を見限るに勇断なる力こそ、自力以上の力である。
(『偽善の妙趣』)
と述べている。
失望は優越感や劣等感、懺悔といった自己反省から生ずるものである。自分の思いから離れることが出来ない私には、失望はあっても絶望は出来ないものである。しかし絶望は反省を超えたものではないだろうか。曽我量深は、
我々が普通に懺悔道といふのは不徹底です。不徹底の懺悔といふことは徒に身を苦しめ、心を苦しめるものに過ぎぬ、さうでないかと思ふのであります。一般宗教でいふ懺悔道は救いの道でないのである。大抵徒に自らを苦しめるものである。大涅槃道といふところにいたって始めて懺悔道が徹底して、その自力の懺悔そのものがもう一つ否定否定せられ、そこに始めて救といふものがあるわけである。
(『本願の国土』)
と述べている。私達は失望で終わらず、自力の懺悔を捨てて、そのままの自己で救われていかなければならない。小さな失望に止まることなく、ありのままの自分を生きることが、失望を超える道ではないだろうか。その為に、絶望すべき小さな我を捨てて、本当の自分を生きたい。