この言葉は、平野修先生が小中高校生を対象にマンガ等を使って「生きるということ」について、お話をしてくださったなかにでてくる言葉です。
「てすりはつかまるためにあるのです」とこのマンガにあります。普段この〝てすり〟につかまる人は、目の悪い人や、足の悪い人です。健康な人は〝てすり〟の存在すら忘れて気がつかず階段を歩いているわけです。しかし、地震が起き、自分が立っておられなくなり、〝てすり〟に気がつき、あわててしがみつくわけです。ここで、〝てすり〟が示していることは、〝てすり〟とはもともと存在しているもので、この私が立つことを助けてくれているものであるにもかかわらず、この私はそのことに気がつかずにいるのではないか。その〝てすり〟に気がつかせない意識が、この自分にあるのではないかといわれているわけです。
例えば、今この私はこの原稿を、畳にもたれて書いています。夜になれば私の体全体をこの畳に投げ出して寝るわけです。この私は、自分の力で生きているように思っているのですが、実はかならず何かにもたれかかり、助けられて生きている存在なのだと思います。しかし、そのことに気がつかず生きているのが、この私なのだと思います。そのことを平野先生は『人間はもともと縁っていきている。そういうことがいちばんもとにあるとするなら、人間は「助ける」ということも、もともとあることじゃないか』と教えていただいているわけです。
自分は、本当は何のために生きているのか、どこへ向かって生きているのかということを、これまでこの私が常識的に学んできた感覚と全く違う感覚で〝生きるとは〟ということについて教えてくださっていると思いました。平野先生は「人は縁っていきるもの」という言葉を通して、人間の心の奥深くにある、「触れ合う」、「分かち合う」という心を教えてくださっています。
最近、ある新聞で「ドリームマップで自分探し」という記事をみつけました。夢をもつ、なりたい職業を探すために、そのことを書き出し、自分だけの夢の地図をつくるということを、経産省の起業家教育促進事業として、小中高校を対象に行っているようです。プラスの価値を一生懸命集めて、マイナスの価値を下げていく・・・
「人は縁って生きるもの」という言葉から、仏法の自分探しとは、プラスやマイナスにふりまわされるのでなく「私は、私で良かった」ということを明らかにしようとしているのではないかと思いました。
森林公園・昭和浄苑 千部 英史