私達は現在この社会に身をおいて、心の底から幸せです、と言い切れる人がおりますでしょう か。毎日朝から晩まで楽しくて楽しくてどうしよう・・・。おそらくそのような人は何処にもいないと思います。反対に、苦労を感じている方が大半を占めているのではないでしょうか。
働いても、働いても、なかなか自分の思ったとおりに仕事が捗らない、計算どおりに事が運ばないというのが現実だと思うのです。
では、私達は人間の命をいただいて生まれさせて頂き、本当に私が人間として生きているでしょうか。
人間に生まれたことを存外あたりまえのようにしておりますが、この事はあたりまえの事ではなかったのです。”不思議として人間の命を頂いてきた”のであります。
生命を頂いたということは、阿弥陀様の呼び掛けに問いを持ってその願いを聞いていくこと、その答えが私達に聞法を通して導き下さるものです。
即(すなわ)ち教えを求める人たちには必ず阿弥陀様が答えを用意されているのです。教えて下さるように約束されているのであります。
私達は欲望の真ん中で生活しております。しかし、その欲だけではいけないという想いが、心の奥底にあるのです。
私達がこの世界に生命を頂いたということは、今日、唯今天下一品の命として生かされているのです。
私達は何かを求めて生活しております。しかし、その何かが不明瞭なまま唯、何を求めているのかが分からないまま自分をごまかし、さしあたって間に合うもので間に合わせていると思うのです。
では私が何を求めているのかと申しますと、実は「煩悩なのです、人間の煩悩、欲望を求めて きた」―この事は事実ではございませんか?煩悩には満足がなく無限なのです。又、対象化されるものが無常なる存在でございますので、次からつぎへと移り変わるものなのです。 現実には欲望の固まりの中で生活をしておりますが、実は真実の教えを求めているのです。仏教の浄土という言葉を使わせて頂きますと、私達は浄土を求め求道しているものなのです。 蓮如(れんにょう)上人(しょうにん)の御信心|は「病気する時は、病気がよろしく候。死ぬるときは、死ぬるが候」と言われております。
まさに落ち着きなさっている御信心を頂いているのです。「人が死ぬものだと思うていたのに、この儂が死ぬ。これはたまらん」という法語があります。
生きとし生けるものは必ず死していかなければなりません。それではなぜ死ぬのでしょうか、という問いが出てまいります。
病気や怪我、事故で死ぬのではありません。死亡原因は、この世、この世界に生まれてきたことだったのです。そのことを心の底から分からせてくれるものこそ、念仏のちから、教えなのです。ですから、仏法とは「生命をいかに生きるか、いのち学」そのものであると思います。 「倶会一処(くえいっしょ)」~ともにひとつのところで、またお会いしましょう。お念仏の世界とは、まさに出遇いの世界であります。
船橋昭和浄苑 黒澤 浄光