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2005年12月
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劣等感から救わるのが 機の深信(お念の救い)である。

曽我量深

 仏教はよく難しいといわれるが、何故難しいのだろうか。それは言葉が難しいという面もあるが、それ以上に我執にとって都合が悪いから、教えに親しみ向き合うことが難しいのだと思う。仏という言葉には、「自覚・他覚・覚行窮満」という意味があり、仏教とは私を目覚ましめ、歩ませる道である。しかし私は目覚めたいと心の奥底では求めながらも、それを拒否して安眠を貪ろうとする自我意識があり、それが大変根深いものである。蓮如上人の言行録である『蓮如上人御一代記聞書』には、

 
 わがこころにまかせずしてこころを責めよ。仏法はこころのつまるのかと思えば、
信心にて御なぐさみ候

 
という言葉がある。現実に向き合わず、思いの殻に閉じこもっていた我執にとっては、ありのままの私に目覚めさせる仏法は心がつまるようなものである。しかし真実の自己から目を背けたいと思い、我執のままにふるまっていても、自分を誤魔化しているという意識は反って強まるだけである。
 単なるなぐさめであれば、自分の現実を見ないで済むが、親鸞聖人の仰る信心の智恵とは、救われていると思い込みということではなく、我が身のありのままを知らせる如来より賜る智恵である。曽我量深は、

  
 救わるべからざる宿業の自己を見出したことは、救いを得ている証拠である。

 
と述べているが、救いとは言葉を変えて言えば、真の落ち着きであり、自分の居場所の発見であると思う。それは自分を否定し救いやなぐさめを求めて放浪するのではなく、ありのままの自己を承認し、自分の現在の一歩一歩を確かに踏み出す力を如来より賜ることだと思う。それには善悪の計らいをいれずに、ありのままの自己を承認し、生かさしめている如来を知ることである。単なる慰めは私は外側から関わるだけだが、私のありのままを認めるということは私を本当に大切に思い、深く関わる親の愛情のようなものである。そして現状を認めてもらうところから、私たちは確かな一歩を踏み出せるのではないか。
 冒頭の言葉は、曽我量深の言葉である。括弧内は小生が記したものである。機の深信とは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来常に没し常に流転して出離の縁あることなしと深く信ず」という言葉である。これは他でもない私自身の現状を照らし出し、そしてそれを自分の責任として下さる仏様の言葉だと思う。
 落ち込むことも威張ることも劣等感の裏表である。しかしそれが分かっていても劣等感は根深く、ありのままの自分を自分自身で認めることは困難である。親鸞聖人は、

 
 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業を持ちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

 
と述べている。念仏はさまざまな業縁によって悩み苦しむ私たちのありのままのすがたに善悪の判断をいれず、そのまま承認してくれる道である。機の深信とは、お念仏によって承認できたありのままの自分に落ち着く道ではないだろうか。

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